お伊勢(1)


 横須賀鎮守府の門前にある、どぶ板通りのちょうど真ん中にある飯屋「孫六」で働くお伊勢は、この五月に数えで十五になる。お伊勢が「孫六」を営む銀一のところへやってきたのは赤ん坊のころだ。子宝に恵まれなかった銀一と三笠夫婦は喜んでお伊勢を引き取り、我が子として大事に育ててきた。銀一からみてもお伊勢は美しく、気立てのいい自慢の娘に育った。常連客の海軍士官たちや、横須賀の町の人間もお伊勢が通るだけで花が咲いたような賑わいをみせた。「行ってきます」と言って、下駄を鳴らして元気に出かける娘のうしろ姿を見ながら銀一はそろそろ話す頃合だ、と思った。


 銀一が神戸からやってきて、横須賀に飯屋を出したのは二十年ほど前のことだ。暮らしはお世辞にも楽とはいえるものではなかったが、安くて旨いものを出すという店の評判は上々で、一人、また一人と常連客が増え、妻と二人かつかつながらもやってこられた。ある日、常連の海軍士官がやってきて、いつものように飯を終え煎茶をすすった。士官は厚い眼鏡をかけ、頭髪は白く、ほとんど退役間近にみえた。士官は銀一に話を切り出してきた。


 「旦那のところ、子供は?」


 「へへ。生憎子宝には恵まれねえみたいで…」


 「そうか、実は正月に士官学校の裏庭に赤子が捨てられていてな。親が引き取りにくるまで海軍病院で預かっていたのだが、このままというわけにもいかぬ」


 「はあ」筋が読めない銀一は間抜けな声を出してしまう。


 「もしよかったら養子にどうだね」


 銀一夫妻は一晩話し合ったうえで赤子を引き取ることにした。赤子が捨てられたときに傍らに置いてあった硯箱も渡された。硯箱には一枚の和紙が入っていて、赤子の名前が墨で書かれていた。「伊勢」。これが銀一夫妻とお伊勢の出会いである。


 お伊勢は八百屋と乾物屋で用事を済ませたあとの帰りに、寄り道をして長源寺裏の高台に登った。初夏の日差しに照らされた青い草の匂いが着物を洗う。お伊勢には気がかりがあった。時折、全身からすっと力が抜けてしまい眠りこんでしまうのだ。最初は一瞬のことだったが次第にその眠りは長くなり、こないだはとうとう一日中お店を手伝えなかった。そのときの銀一夫妻の慌てようを思い出した。


 「私が倒れたりしたらお父さんとお母さんがまた天と地がひっくり返ったような大騒ぎをするのだろうなあ」


 お伊勢はそんなことをまるで他人事のように口にしたあとで、横須賀の海をみながら海軍兵舎から流れてくるラッパを伴奏に鼻歌を歌い、東京のカフェやデパートで洋服を着て働く姿を空に描いた。お伊勢は自分が銀一夫妻の実の娘だと信じていた。夏島から飛び立った海軍航空隊の複葉機が、お伊勢の頭上を過ぎていく。


 「ねえ、東京ってどれくらい素敵なところなの?」


 お伊勢の声に応じるように、複葉機は翼を白く光らせた。(第一稿)